じゃぱりまんの悲哀

ファミリーマートで発売されているじゃぱりまんを購入した。

ファミリーマートと言えば、某戦車アニメで慣れ親しんだサークルKサンクスを廃校にしてしまって以来二度と行くまいと誓ったコンビニである。


が、それとこれとは話が別だ。


注文する際、声に出して「じゃぱりまん」と言っただけで、深い感慨がこみ上げてきた。

フレンズたちの食べ物が、今、こうして手に入る。

実在というのは実にインパクトの大きいもので、手に取ってもしばらく眺めていた。

冷めてしまうので、惜しみながらも口に運んだ----途端、涙が溢れ出てきた。


フレンズが当たり前のようにじゃぱりまんを食べていたあの世界が、もう手の届かない所にあるということを、じゃぱりまんを現実で食べることによってダイレクトに感じてしまった。


件の騒動後もtwitterのトレンドアワードやたつき監督の新作で、痛みが麻痺していたのが、思い出したかのように襲ってくる。

架空ながらも、放送中、そして放送後今に至るまで、親しく想っていたフレンズ達の息づく世界が、もうどこにも姿を現すことがない、永遠に概念上の存在でしかなくなってしまった。

たつき監督が描き出す「けものフレンズ」の世界--かのパークの憧憬と、それを垣間見る我々の世界が繋がっていたスコープのような通路が途絶えてしまったのだ。

二次創作も想像もすべては仮の姿に過ぎない。洞窟の外に最早出る術を持たない我々は、二度とその外側にある真のイデアを見ることはなく、ひたすらイメージを想起することしかできない。

どんなに二次創作を作ろうと、悲しいかな、この「あったかもしれない世界」にひとつの定まった、力のある形を与えられるのは、公式でしかない。

そして仮に公式から新シリーズが始まったとしても、それは「たつき監督の描く」フレンズの世界、この宇宙から完全に隔離されてしまった、一つの最早始まりも終わりも観測することの出来ないパラレルワールドの姿では有り得ないのだ。


「かばんちゃん達の物語が続いていくなら、僕らもけものフレンズの無い明日を生きていかなくちゃいけない」----放送終了時に涙を呑んで明日を生きることを決意したファン達にとって、このことは色んな希望が遠のいたと言えるだろう。

二度と描かれることのない彼ら、明かされることのないミライさんやサンドスターの謎、新たなちほーやフレンズとの物語。この作品を思い起こす度、その未練を思い出しては嘆くしかないのだ。

さらに哀しいことに声優だけは残りーーーー公式から発表される新たな曲などのコンテンツも、その声が聞き慣れているが故に、より一層この悲しさを掻き立ててしまう。

それはあたかも記憶を失った恋人、同じ顔同じ声なのに自分の知っている愛おしい人ではない…積み重ねてきた想いだけがいたずらにその容姿によって思い起こされ、失った事実を残酷に訴えてくる。

しかし恋人も声優も無実なのだ。

むしろ被害者と言ったっていい。

それでも、それを解っていても、僕らは慟哭せずにはいられない。あの人を返してくれ、たつき監督を返してくれ、けものフレンズを返してくれ、と。


一年経ったが、傷は思い出とともに深く残っている。
思いを馳せながらじゃぱりまんを頬張ると、走馬灯のように思い出が蘇ってきて、おいしいはずなのに、涙が止まらなくなるのだ。

クソアニメ「ポプテピピック」の『クソ』とは

2018年年始早々にぶちかまして話題沸騰中のアニメ「ポプテピピック」の2話が先日、放送された。

大川ぶくぶ氏の原作を知らずとも、漫画のシーンがネット上で煽り素材として多く出回っているのをご存知の方は多かろう。

その漫画も自他ともに「クソ漫画」と称して流行し今に至るが、その「クソ」とは一体何なのか、考えたことはおありだろうか。以下は、それに関しての僕の見解である。
アニメ2話迄と原作セカンドシーズン迄のネタバレがあるのでご注意ください。



















ポプテピピック」というタイトルに、最早枕詞のように「クソ」と言う形容詞がつく。

既に話題になっているが、去年の先行上映会で声優の発表があった小松未可子さんと上坂すみれさんのダミー告知を皮切りに、フェイクOP(ここまでは想定内だった)、枠内再放送、1話で四通りもの声優出演、横行するパロディ、実写、作画崩壊等、二話の時点で既にこのアニメの特異な部分は枚挙に暇がない。

予想を秒単位で裏切ってくるこのアニメが、では、なぜ「クソ」と言われているのか。

通常では考えられない構成だから?
声優の無駄遣いだから?
視聴者含めどこにも忖度しないから?
否、そんな理由ではない。そもそも、理由などない、この作品は「クソ」としか表現できないからだ。

実に当たり前のことを言うようだが、これがこの作品の真髄である。もっとこなれた表現では「ナンセンス」と言う。意味など無い、それ故に面白い。

アニメーション含め、昨今は解釈しがいのある作り込まれた作品が評価される風潮になって久しい。
その中で、(おそらく)潤沢な予算に後押しされた、純粋なまでに振り切って我が道をゆくポプテピピックは、2015年始まってからようやく、満を持して2018年、新たなナンセンス--今の言葉で言うと、『クソ』--の嵐を、地上波を占拠し日本に吹き荒らすのだ。

そしてポプテピピックの恐ろしいところは、このナンセンスさに驚くべき磨きがかかっているところだ。

考えても見てほしい、ストーリー構成やら何やら、全く意味が通じないのに、なぜこの作品はここまで「面白い」のか。
観た後しばらく「なんだこれ」という衝撃に打ちのめされながら、あるいは「時間を無駄にした」、あるいは「全く分からなかった」と感じながらも、視聴者は確かにその余韻の中にいるのだ。
(「余韻に浸る」と言うといささかパンチに欠けるので、「余韻に揺さぶられている」と言った方が適切だろうか。)

話の実質的にはなんの意義も持たず、それでいて視聴者に多大なる衝撃を与える。
声優の技量ももちろんだがそれだけではない。
ネタを繰り出す「間」、構成や配役の順番、内容のチョイスなど、一歩間違えればただの意味不明なところとの、言わば綱渡りのような絶妙なポイントを突いてくるのだ。

アニメ1話もまさにそうだった。オープニングの星色☆ガールドロップで始まり、第1話は全体的にほとんどがパロディという構成である。
原作の漫画を読んだ方ならご存知かもしれないが、この流れはセカンドシーズンのものだ。そして、セカンドシーズンを読み始めた時、多かれ少なかれ初巻とのテイストの差を感じた事だろう。

そう、1巻の方が「わけがわからない」のだ。

2巻はちゃんとオチがある、ネタがある、漫画が成立している。こんなのはポプテピピックじゃねえ、一巻の衝撃に劣る ---- 裏を返せば「まだ多少の理解の余地がある」、初心者向けということだ。
フェイクOPからの流れ改め 、アニメ二話の本OPでいよいよ「ポプテピピック」が始まる。1話はさしずめ前菜、冷たいお芋のスープと言ったところか。
めちゃくちゃに見えるが吟味した途端、綿密に組まれた構成が垣間見えてくる。


一見支離滅裂でナンセンスな特質とは相反しているようだが、この効果的なプロデュースには一周回って高度なセンスが必要であろう。
めちゃくちゃな映像の集合体がひとつのまとまりとして殴りかかり、クソアニメ「ポプテピピック」のブランド性、カリスマ性、権威が生まれる。それがこの破壊の大渦を作り出すのだ。


さらにこのアニメ、構成が上手いだけでなく笑いの質も高度なのだ。

twitterでの@m_tobermory氏の発言( https://twitter.com/m_tobermory/status/952346558204293120 )の通り、この作品には下や差別の要素が一切ない。他を貶めるのではなく、むしろ自ら果敢に色々な方面に喧嘩を売り、そして「クソ」を自称することで、言わば自家発電のようなギャグを生み出す。

原作ではインターネッツで物申すマン、俺も俺もボーイ、スモーカー、サブカルクソ女などの多彩なキャラクターも作品にポイズン的スパイスを加えているが、さすが地上波を針まみれの身体で転げ回るのはどうなのか、ツッコミの起因がポプ子とピピ美の行動から生まれる自発的なネタになっている。

そしてその配慮を照れ隠しの如く多彩な構成で感じさせないさまに、この作品の良さ、ひいては愛嬌さえ感じてしまうのだ。


このように、アニメ「ポプテピピック」はこの息苦しい配慮の時代を、オリジナリティ溢れるハイセンスなナンセンスさーーーー『クソ』を以てして、アニメの新たな境地へと登り詰めているのである。三話以降への期待が高まるばかりだ。